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『ミーン・ガールズ』からの『シニアイヤー』、そして『ハーフ・オブ・イット: 面白いのはこれから』へ/Y2Kへの旅vol.2

Y2K新書で紹介されてたのを聞いてめちゃめちゃ見たくなった『シニアイヤー』ですが、その前にこちらも未見の『ミーン・ガールズ』を見ました。『ミーン・ガールズ』は2004年(日本公開は2005年)なのでガチでY2Kど真ん中ムービーです。結果として、『シニアイヤー』はかなり『ミーン・ガールズ』を下敷きにしていたことがわかったので、二作続けて続けて見てよかったです!

 

ミーン・ガールズ』(2005年)

 

ミーン・ガールズ (字幕版)

ミーン・ガールズ (字幕版)

  • レイシー・チャバート
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ヒロインはアフリカからアメリカの学校に編入してきた女の子・ケイティ。最初にオタクっぽいジャニスとデミアンという二人組と仲良くなるのですが、直後にクインビー的な存在であるレジーナに気に入られ、彼女率いるプラスティックスと呼ばれる女子グループに入ることになります。レジーナに個人的に恨みのあるジャニスはケイティをけしかけ、仲間になったふりをしてレジーナの弱点を探させようとするのですが……というあらすじです。

 

これ原作はノンフィクションでタイトルは『Queen Bees and Wannabes』で邦題は『女の子って、どうして傷つけあうの?』なんですよね。だから物語も基本は女の子同士のバトルだし、クインビーやその取り巻きの女の子たちの描き方も現代から見ればステレオタイプにも見えます。頭はいいのに男の子の気を引くために馬鹿なフリをしたり、レジーナのことを本気で憎むようになるきっかけも男の子が原因だったりして、女の子=恋愛と固く結びついて描かれるのも時代だなぁと思います。

でもきっと当時はこれがすごくリアルに感じられたんだろうし、ジェットコースターのようなヒロインの浮き沈みは見ていて面白く、そして大円団なラストはスッキリで、引っかかるところもあるけれど全体的には楽しんで見られる映画でした。

そして『シニアイヤー』へ!

 

 

『シニアイヤー』(2022年)


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こちらはクインビー的存在であった高校生ステファニーがチアリーディング中の事故で頭を打って昏睡状態に、そして二十年後突然目覚めるところから話が始まります。自分が経験しなかったシニアイヤー(最高学年)の最後の数ヶ月を過ごしたい!と高校に無理やり編入するのですが、そこは自分の知っている高校生活と別世界で…!?というコメディです。

目覚めたステファニー、テレビが薄型になってることもスマホの存在も知らないし、「ゲイ」という言葉をからかいとして使って怒られるし、スクラップブック持ってるし、ブリトニーの歌で踊っちゃうし、カルバンクラインの香水使ってるしで、個人的に同年代なので共感生羞恥がヤバかった😂

 

何が最高って本作のヒロイン、ステファニーがぜんっぜんブレないんですよね。ある意味、自分がそれまで持ってた価値観を全否定される世界に放り込まれるんだけど、すぐインスタのフォロワー増やそうとするし、ライト買ってきて動画配信も始めちゃうし、とにかく順応が早い。このサバイブ力、さすがY2Kヒロインです!!

実は同じように、それまでとまったく違う環境に放り込まれた『ミーン・ガールズ』のケイティは「自分」がブレちゃうんですよね。いつの間にか自分が大嫌いな人間そっくりになっちゃてる。その点、Y2Kから2020年代に飛んできたステファニーは本当に強かった。時代が俺についてこい、というパワフルさがある。

それでも彼女が捨てられないものがあって、それがプロムクイーンへの憧れ。それが解体される、ステファニーが憧れていた伝説のプロムクイーン、ディアナ・ルッソとの再会シーンは本作の肝で、彼女の新たな人生とすごく満足そうな笑顔にめちゃめちゃグッときます。泣いちゃう。

そしてこの作品、ラストがみんなで歌って踊る、みんな大好きな例のやつなので本当に最高です。かつて事故で昏睡してしまったあの技を今度は成功させるのも、受け止めてくれると信じられる人がいる、というメタファーなんだろうなと思います。あとこれについては『ミーン・ガールズ』の謝罪大会(?)からの引用なんだろうなとも思いました。

 

 

『クルーレス』(1995年)

クルーレス (字幕版)

クルーレス (字幕版)

  • ドナルド・ファイソン
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『シニアイヤー』で伝説のプロムクイーン、ディアナ・ルッソを演じたアリシア・シルヴァーストーンがクインビー的な女子高生を演じている『クルーレス』もネトフリにあったので見ちゃいました。

こっちは転校生の女の子をおしゃれにプロデュースして恋人をゲットさせようって話なんですけど、ことごとくうまくいかないし、最終的にその転校生が好きになった自分の義理の兄(今は法的にも血縁的にも関係はない)を自分も好きだと気づいてしまう…という、少女漫画的なかわいいお話でした。

調べたら、見てる時は気づかなかったんですけど、ジェイン・オースティン『エマ』が原作だったそうです。やっぱりすべての道はジェイン・オースティンに繋がっているようです😂(Y2K新書)

 

 

『リベンジスワップ』(2022年)


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もはやY2K関係ないですが、『ミーン・ガールズ』と『シニアイヤー』を2周したら、ネトフリからオススメされた『リベンジスワップ』という映画も見ました。

復讐の交換、というタイトルそのままに、たまたま知り合った女の子二人が互いの復讐を果たすという約束をします。こちらも学園モノでアウティングが復讐の動機であるあたり『ミーン・ガールズ』の影響を感じる作品でしたが、ステレオタイプな物語からは抜け出し、ひねりのあるストーリー展開で、自分を傷つけた相手を許すことはできるのか?という問いに挑むのが、物語としてステップアップしてる感じがしてよかったです。

 

 

ティーンムービーにおけるレズビアン

ミーン・ガールズ』『シニアイヤー』『リベンジスワップ』と三作見て、レズビアンの描き方について考えさせられました。

ミーン・ガールズ』ではレジーナからレズビアンであるとアウティングされたことを恨んでいるジャニスがケイティをけしかけたという経緯があったのですが、実際ジャニスがレズビアンであったかどうかは明らかにされず、ラストシーンでは異性愛者になっていたので、かなり気になるところではありました。当時はレズビアンのキャラクターを出すのが難しかったのかな…?

『シニアイヤー』ではステファニーの親友であり校長でもあるマーサがレズビアンであることがステファニーが目覚めた20年後に明かされます。あなたにとっては最高だった高校生活はゲイにとっては恐ろしいところだった、とステファニーにマーサが話すシーンはとても印象に残ってます。だけどマーサは作中ずっと一人なんですよね。自虐的に最後まで自分は一人だと言ったりするし。なんでなんだろう、大円団なラストの中で、彼女だって同性の恋人がいる幸せなキャラでもよかったのにな、と思いました。(恋人がいない=不幸、というわけでもないにしても)。

『リベンジスワップ』は、主人公二人のうち一人がレズビアンであることは早々に明かされます。ここでもアウティングが復讐の原因です。本作はネタバレしない方がいいと思うので詳細は省きますが、レズビアンの彼女は最後、同性の恋人と幸せそうにキスしているシーンで終わります。それが本当に、よかったー!って思いました。

というのも、ティーンズムービーって基本的に最後は大円団なんで、主人公含めみんな幸せに終わるんだから、作中でなんらかの差別を受けるセクシャルマイノリティのキャラこそ幸せになってほしいじゃん!!!と思うわけです。

 

ミーン・ガールズ』ではその存在をあやふやにされていたことを思えば、『シニアイヤー』はマイノリティーをオープンにしているだけでも進歩してますが、そんな繊細な話じゃないんだから(失礼😂)、別にマーサを孤独なキャラとして描く必要はなかったんじゃないかな〜と思いました。

その点『リベンジスワップ』は、アウティング問題を描きつつも、最後は幸せそうな姿を見せてくれたのが本当によかった。幸せに生きるセクシャルマイノリティの姿をフィクションで、特にティーンムービーで描く意味は大きいと思います!

 

 

『ハーフ・オブ・イット: 面白いのはこれから』(2020年)


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さてこれらのティーンムービーを見たあと、どうしても見返したくなった作品があります。それが『ハーフ・オブ・イット: 面白いのはこれから』です。

レズビアンの女の子エリー・チュウが主役の物語です。舞台はアメリカの中でもめっちゃめちゃ田舎で保守的な土地。学校の様子を見るかぎり黒人とかいない。アジア系もエリー・チュウひとりです。

話は、同じ学校の男の子トミーがラブレターの代筆をエリー・チュウに頼むことから始まります。素気無く断るエリー・チュウでしたが、光熱費の支払いのために渋々依頼を受けることに。トミーのラブレターの宛先は、エリーが心を寄せていたアスターでした。

エリーとアスターはともに文学的素養が高く、いろんな作品を引用した手紙やメールを交換するうちに心を通わせていきます。だけど手紙を書いているのはトミーではなくエリーであることをアスターは知らず、エリーがアスターを好きであることをトミーは知らない。やがて秘密が暴かれ破綻する三角関係の行方は…?という物語です。

 

まずエリー・チュウとトミーの友情がとても良いです。他人と関わりたくないという態度のエリー・チュウですが、素朴であけすけなトミーに少しずつ心を開いていく。トミーは代筆だけでなく、アスターとの実際のデートに向けて文化的素養をエリー・チュウに教えてもらってる身だけど、学校では孤立しているエリー・チュウをそっとサポートするような気遣いもできる男子です。

そして何より、エリー・チュウのキャラクターが好きです。保守的な土地においての完全なるアウトサイダー。アジア系だし女だしレズビアンだし貧乏、唯一の家族であるお父さんは英語喋れない。色々詰んでる彼女ですが、持ち前の頭脳と教養でなんとか道を切り開いていく。こういう話、大好きです。

本当にグッとくるポイントのめちゃめちゃ多い作品なので、見た人と語りたくなるお話です。今のところ、2020年代ティーンムービーとしてはイチオシです!!!

 

 

 

 

 

『ブリジット・ジョーンズの日記』『NANA2』/Y2Kへの旅vol.1

Twitterを見てくれてくれる方はご存知かと思いますが、最近わたしはY2K新書というPodcastにどハマりしてるのですが、トークの中で出てくるY2K(2000年代)作品、意外と見てないものも多いな…?ということに気づき、今改めて見てみようかな!と思い立ちました。雑感混じりの鑑賞記録です。

 

ブリジット・ジョーンズの日記』(2001年)

 初見です!

 公開当時わたしまだ大学生だったんですけど、大作よりミニシアター系見る方が格好いいと思い込んでた若気の至りな時代で当時は全然見たいと思わなくて、なんかそのまま今に至る…という感じなんですが、でもロマコメの名作に必ずしも挙げられるので、いつか見ないとなーと思ってました。Y2K新書に見るきっかけをもらえてよかったです!

 原作は未読ですが原作のベースになっているオースティンの『高慢と偏見』は読んでて、BBC版ドラマは去年かな?Huluの配信に来たのでついに見ました。『高慢と偏見』は原作もBBC版も大好きです。ついでに『高慢と偏見とゾンビ』も好きです。

高慢と偏見がなければY2K文化は生まれなかった」というのは柚木先生の説ですが笑、『高慢と偏見』の主人公エリザベスはプライドが高く意地っ張りで口も悪い。だけどちょっと惚れっぽいところはかわいいし、何より自分を曲げないところが素敵です。個性的で気の強いヒロイン、たしかにY2Kっぽいかも〜なんてことを思いました。

 

さて『ブリジット・ジョーンズの日記』、まずは今見たのがよかったと思いました。というか公開当時は見ても面白さが理解できなかったかも…。だってヒロインが何もしないのにモテるし、仕事で評価されるのも全部ラッキー。若い頃に見たら、ヒロインに都合のいいだけの話、としか思わなかったかもしれない。

でも今見ると、ヒロインが成長しない、できないところが愛らしいし、何より共感しちゃうんですよね。成長なんてそう簡単にできないよ!酒もやめられないよ!日記続けてるだけで偉いよ!!

それに成長したから何かを得られるっていうのも誰かの決めたルールみたいなものだし、成長しないあなたをそのまま好きになってくれる人がいるって、すっごくポジティブな物語だな〜と思いました。

それにまあモテてるって言っても片方そうとうしょうもない男だし、セクハラから始まる恋なんて今となっては完全アウトです笑

あとBBC版も見たあとだったので、ダーシーによるダーシーのパロ(BBC版でダーシーを演じて視聴者をメロメロにしたコリン・ファースがBJでもダーシーという名のキャラを演じている)がガチで面白いです。BBC版は95年なんですね。まだ記憶に新しい時にこの作品が来て、イギリスの人たち大歓喜したのわかるー!と思いました。

あとブリジットのいつもの友達三人がいつでもブリジット大好きなのがサイコーなのと、ブリジットのママが「子供なんて産まなきゃよかったー」って言ってパパ捨ててテレビショッピングの司会者と付き合い出したのもめちゃめちゃ面白かったです。女は結婚に縋るしかなかった時代の中産階級の女であるがゆえに娘の結婚に目の色変えてた『高慢と偏見』の母親を真逆に転生させてるのがすごくいいなって思いました。

『母親になって後悔してる』って本がタイトルだけで物議を醸したのは去年ですよね。それを思うと今より母親への幻想がキツかっただろう20年以上前のこの映画で、子供なんか産まなきゃ良かったって、母親があっけらかんと娘の前で言っちゃうのが面白すぎるなって思いました。

今見るにあたっては、セクハラ描写がきっついのと、ギョッとするようなセリフもあるし、どこでもみんなタバコ吸ってる様子に若い人はびっくりしちゃうかもね…と思います笑。この20年の変化って大きいんだな〜と改めて思いました。

そのうち続篇二作もみようと思います!


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NANA2』(2006年)

NANA、なつかしいですね!

原作『NANA』の連載は2000年から、2009年に休載なので、ほんっとにY2Kど直球ですね。わたしはりぼんっ子なので矢沢あい作品はサーフィンのやつくらいからリアタイしてたと思います。

映画版の無印NANAは2005年。劇場では見てないかな…ソフト化されたのを見たと思います。

NANA2』はみなさんご存知の通り、メインキャストが何人も交代してるせいか、なんかちょっと微妙…みたいな空気が漂ってた記憶があります。私もそんなに興味持てなくて2023年の今まで見てなかったのですが、Y2K新書のおかげで見る機会を得ました。

確かに!Y2K新書で語られてた通り、市川由衣ちゃんのハチは、その存在感や可愛さやちょっと軽い感じも、すごいリアルでした。ナナとハチのバランスも1より原作に近いと思います。

でも…リアルであればあるほど痛々しいんですよね、この話…。

これはもう原作のストーリーの問題なんですけど、原作は絵柄の可愛さとかエモーショナルなコマ使いでなにか誤魔化されていたものが、リアルな人間が演じるとその痛さが露呈してしちゃうのかな〜と思いました。

だけどそれはそれとして、今またテレビドラマでリメイクとかしても面白そうだなって思います。やっぱり現役世代は絶対見ちゃいますしね。

ところでシン役の本郷奏多くんはよかったですね!めちゃめちゃ原作のシンぽかったです。あとやっぱりブラストのライブのシーンはすごく良くて、中島美嘉さんがナナ引き受けてくれて良かったなぁとしみじみ思いました。

改めて原作のNANAのことも考えたんですけど、……言語化に相当時間がかかりそうな気がするのでやめときます笑。ヒロインへの共感を時にはねつけるようなこの物語が最後、どこへ行き着くのか読んでみたかったです。

 

 

 

 

一杯の温かいお茶をあなたに

ひさびさに本の感想を書きたいと思います。柚木麻子さんの『オール・ノット』です。Twitterを見てくれてくれる方はご存知かと思いますが、最近わたしはY2K新書というPodcastにどハマりしてて、柚木先生はそのパーソナリティの一人でもあり、なんだか最近柚木麻子祭りです😂

 

さてそんな柚木麻子さんの最新刊である『オール・ノット』。

主人公・真央は奨学金とバイト代で学費と生活費を工面する、いわゆる苦学生です。そんな真央がバイト先で不思議な中年女性・四葉さんと知り合います。

試食販売を専門とするその四葉さんは地域の小売業では有名な存在で、彼女が売ればどんな商品でも不思議と売れると評判の人でした。なぜか自分に優しくしてくれる四葉さんと親交を深めた真央は、最初は固辞したものの言いくるめられ、四葉さんが祖母から譲り受けた宝石箱を貰うことになってしまいます。

金銭的に追い詰められていた真央は確かに助かったのですが、なぜかその後なんとなく四葉さんと距離を置くようになってしまいました。

卒業後、コロナ禍で就職できなかった真央は派遣会社で働きながら、以前四葉から貰ったオーダーメイドシャツチケットを使うために横浜・元町のテーラーを訪れます。その店はテーラーの看板はそのままに、韓流アイドルグッズを売る店に変わっていました。知り合いから貰ったとチケットを差し出した真央に、店主らしい中年女性が驚いて「もしかして、山戸四葉の知り合い?」と聞きます。

その女性は四葉の学生時代の親友であった実亜子、通称ミャーコでした。真央は彼女の話をたくさん四葉から聞いてました。そしてそこから真央はミャーコを通じて、自分が知る前の四葉、そして四葉の生まれ育った山戸家のストーリーを知ることになるのです。

 

四葉はなぜ真央に、ほとんど唯一の財産である宝石箱をポンと渡したのか。

山戸四葉という人はどんな人生を生きたのか。

真央と同じように知りたくて、次々とページを捲ることになります。

 

"all knot" or "all not"

本作のタイトル『オール・ノット』は"all knot"。パールのネックレスの糸が切れてもいきなりバラバラにならないよう、すべてのパールの間に結び目がある加工、のことだそうです(ジュエリー詳しくないので知りませんでした笑)。

だけど"all not"には「すべてダメではない」という部分否定の意味もあって、ダブルミーニングのタイトルになってます。読み終えると、なんていいタイトルだろうと感動してしまいました。

 

目には見えない影響、受け継がれるスピリット

結び目は、人と人の縁です。

山戸家の女たち、祖母・三葉、母・一葉、四葉の血縁で結ばれた濃い縁もあれば、ただ職場で知り合っただけ、という四葉と真央のような一時的な関係、学生時代はべったりだったのにいつしか音信不通となった四葉とミャーコの友情、そして本来は対立してもおかしくなかった一葉・四葉と舞の、忘れられない繋がりもありました。

だけどどんな関係もあったことは無かったことにならない。それぞれの関係性は独立しているのではなく、その人を媒体に他の人との関係性にも確実に影響を与えていきます。

例えば四葉の、舞や真央への惜しみない支援のもとにあった罪悪感は、母である一葉のスピリットが影響しているように思います。一葉はその母である三葉の成金主義を嫌って事業は継がず、女優仲間を守るための芸能事務所を経営しました。その背景にはベトナム反戦運動激しい時代に学生時代を過ごし、米軍相手に稼ぎまくる母への反発があった。

自分達の裕福な生活は誰かを踏みつけているのではないか?という母娘の不安はやがて、「りぼんのぼうし」事件に繋がっていきます。

戦争によって潤った街、という横浜の一面が描かれたのも新鮮でした。

 

早すぎた告発

この物語では、あるセクシャルハラスメントの告発と、それが引き起こした世間からのバッシングが描かれます。それは2010年初頭のことでした。

MeTooが世界に広がったのは2017年のこと。2010年初頭の日本にはまだ、弱い立場の人間から著名人に対するセクハラの告発を受け入れる土壌はありませんでした。

正直今この小説を読んだ2023年の日本だってきちんと受け入れているわけではないと思います。#MeToo以降のたくさんの告発の中にはスルーされてるものの方が多いはずです。それでも、告発者を責めてはいけない、守るべき、という風潮はなんとか形成されているのではないと思います。

作中の告発もまた、時間を経て世間の受容が変わります。変わるべきは社会なのだ、とこの物語は教えてくれます。

 

誰もが生きやすい社会のために

またこの物語は、現代日本の貧困問題を描きだします。

主人公・真央も学生時代は実家からの援助はゼロで、奨学金という名の借金に日々脅かされていました。また派遣として働き出しても生活は苦しく、正社員との格差に傷付きます。自身が契約社員に昇格し、店長として若いバイトを使う立場になれば、自分の学生時代よりさらに経済的に辛い立場に追い込まれている若者たちに心を痛めます。

自分が四葉に助けられたように、真央も誰かを救いたいと思います。だけどそれが何になるのか。穴の空いたバケツで水をすくっているようなものです。

人の縁や善意のような、宝くじに当たるようなラッキーがないと生き抜けない人がいるってどうなの?と再びこの物語は社会の責任を問います。

だけどその一方で、人の縁や善意の尊さをこの物語は讃えます。完璧な社会などあり得ない以上、人の縁や善意もライフラインの一つです。そんなものがない殺伐とした社会には住みたくない。そして自分が受け取ったものをまた別の誰かに渡したい、という気持ちの美しさ。

それが役に立っても立たなくても、"all not"、きっと何の意味もないわけじゃない。

誰もが生きやすい社会を実現するには、公的な支援の枠組みと、誰かを思いやる個人の気持ちの、その両方が必要なんだろうと思います。

 

 

 

わたしも誰かにきゅうりのサンドイッチといっぱいの温かいお茶を手渡すことができるだろうか。それができる自分になりたいと、思わせてくれる物語でした。

そして今は会わなくなった、学生時代の友人や昔の職場の同僚のことも久しぶりに思い出しました。教えてくれた小説や一緒に夢中になってたドラマ、些細な会話が時折蘇ります。もう連絡することはなくても、一緒に過ごした時間は記憶が薄れても、自分の中の一部になっています。

みんな元気でいてくれるといいな。

 

 

痛みを抱えた一人の人間、カオルさんのこと

THE FIRST SLAM DUNK』観てきました!

(原作は擦り切れるほど読んでるけどアニメはほぼ見てない人間です)

 

映像音楽臨場感全部すごいとかOPかっこよすぎとか、この映画の好きなところ、すごいと思うところはたくさんあって語りきれない(&語彙力がない)のだけど、個人的にしみじみとよかったなぁと思い返しているのは、映画オリジナルのエピソードである宮城カオルさんの話。

 

 

子供が主役の映画における母親は「母親」というキャラクターであって「個」を感じることがあまり多くない。「母親」というだけで「そうあるべき姿」を背負わされ、そこから逸脱すればバッシングされるのは現実もフィクションも同じだ。

だけどこの映画における母親、カオルさんは「母親」というキャラクターに押し込められることなく、ちゃんと痛みを抱えた一人の人間として描かれていた。

 

 

リョータの母親、カオルさんは夫と死に別れ、頼りにしていた長男(リョータの兄・ソータ)まで事故で失うという悲劇から立ち直れずにいる。おそらくは夫という稼ぎ手を失って沖縄の田舎町では暮らせず、仕事を求めて本土に引っ越し(カオルさん自身は本土出身かもしれない)、ひとりで子供たちを育てている。

 

 

カオルさんは長男ソータの後を追うように成長するリョータと上手く向き合えなかった。それは最愛の兄を失ったリョータの傷をケアすることができなかったということでもあった。

カオルさんは恐らくそのことに自責の念を持っており、リョータは頼り甲斐のある兄でなく自分が生きていることに罪悪感を感じている。

二人の心は行き違ったまま、沖縄を離れても息子を奪った海を無言で見つめているカオルさんの横顔に胸が締め付けられる。

 

 

置き手紙を読んだカオルさんがインターハイを見に来てくれたことをリョータが知ったのかどうか、あなたはソータの代わりではないとカオルさんは伝えられたのか、二人の会話はほとんどなかったのでよくわからない。

だけど帰ってきたリョータがソータの赤のリストバンドをカオルさんに渡したとき、二人にしかわからない、二人にしか共有できない痛みがそこにあって、そこから逃れるつもりはないと、見えない手を繋いだように見えた。

 

 

この映画は原作にはあったモノローグをできるだけ排除している。

それはこの宮城家にまつわるオリジナルエピソードにさらに顕著で、リョータの気持ちはかろうじて置き手紙に残されるが、カオルさんの気持ちはほとんど言葉にされない。

だけど言葉にならないさまざまな描写のかけらがこの親子の揺れる感情を濃密に表現する。それはまるで上質なドラマのようだった。

 

 

これから先、リョータのユニフォーム姿を見るたびに、背負った7番と腕に巻かれた赤のリストバンドに秘められた記憶を思ってグッとくると思う。そして向き合うことを始めたカオルさんとリョータの、二人のそれぞれの痛みが少しずつでも癒されますようにと願うのだ。

 

 

それにしたって20年以上前に完結した漫画のキャラクターにまたこんなにも激重な感情を持つとは思わなかったですね……年内は厳しいかもしれないけどもう一度見に行けたらなーと思ってます!

井上監督もスタッフさんも声優さんもそしてこの映画にまつわるみなさん、ありがとうございました!

二つのドラマを繋ぐ彩雲〜「透明なゆりかご」と「おかえりモネ」〜

 久しぶりに『透明なゆりかご』を全話見た。沖田×華さんによる同名漫画を原作としたこのドラマは2018年にNHKのドラマ10の枠で放送された。私はこのドラマが放送当時からとても大好きで、だからこそ脚本家と主演が同じコンビの『おかえりモネ』に期待し実際そちらにもどハマりしたのだが、『おかえりモネ』を見た後に『透明なゆりかご』を見返すのは実は今回が初めてだった。

 同じ脚本家の作品とはいえ『透明なゆりかご』は原作があるからある程度別物だと思っていたのが、意外にも『おかえりモネ』との共通項が多いことに気付かされた。今回は原作漫画(ドラマ制作時に刊行されてた6巻まで)も読んだことで原作とドラマの境目を知り、その原作の隙間を埋めるドラマオリジナルの部分がそのまま『おかえりモネ』に繋がっていると思った。そういう話をします。

 

 

ヒロインを見守る二人の医者、由比先生と菅波先生

 ドラマ版『透明なゆりかご』は、話の軸である妊婦さんたちエピソードは(時折アレンジはあるが)ほぼ原作に忠実だが、ヒロインと継続的に関わるキャラクターはドラマオリジナルだ。先輩ナースである望月紗也子(水川あさみ)、婦長の榊実江(原田美枝子)、そして院長である由比朋寛(瀬戸康史)、この三人はドラマの舞台となる由比産婦人科医院のメインスタッフであり、ドラマオリジナルのキャラクターである。

 そしてそのことを踏まえてドラマを見ると、院長の由比が『おかえりモネ』の菅波に非常に近いキャラクターであることがわかる。由比のエピソードの中に菅波へと連なる種のようなものがあるのだ。

 

 まず由比も菅波も、大学病院という権威から外れても自分のやりたいことを選ぶ医者である。

 由比は大学病院時代に14歳の妊娠という難しいケースを担当した。14歳の北野真理とその家族は出産を選ぶが、出産直後に真理の最大の理解者であった母親が死亡する。引っ越した真理のその後が心配で直接会いに行こうかとまで言い出した由比に、当時も一緒に働いていたベテランナースの榊が、患者に必要以上に関わらない方が良いとピシャリと言う。だが由比は、出産は人の人生を変える、だから一人ひとりに納得いくまで関わりたいのだと反論する。効率ばかりを求められる大学病院のやり方にも疑問を感じ、周囲の反対を押し切って大学病院を辞めて個人病院を開いたという経緯があった。

 一方『おかえりモネ』の菅波は東京に生まれ都内でも有数の大学病院に勤める若手医師だが、指導医である中村に頼まれて一週間おきに宮城県登米の診療所で働くことになる。最初は渋々といった風情であったが、三年近くその生活を続けるうちに彼の内面も大きく変化する。当初は訪問診療を始めることさえも反対をしていたが、やがて地域医療と在宅医療に興味を持ち、一時は大学病院を辞めて登米の診療所に専念することを決断した(大学病院に籍は残す)。

 

 患者の本当の思いを汲み取るための丁寧なアシストも両作で描かれる。

 『透明なゆりかご』最終回では胎児に重度の心臓病が発覚する夫婦の物語が描かれる。夫婦はそれでも出産する道を選ぶが、母親である灯里(鈴木杏)にまだ口に出さない思いがあるのではないかと、気付いた看護師の紗也子の進言を受け、由比は夫婦に問いかける。出産後、本当に積極的治療を望むかどうか。

 この流れは『おかえりモネ』のトムさんのエピソードで再現される。トムさんの本当の気持ちに気付いたモネが菅波に進言し、それに菅波は反発するが、結果としてトムさんのもとを訪れて新たな提案をすることにつながる。

 ここではまだ若い菅波が、やがて由比のような医者になるその過程が丁寧に描かれていたようにも見えた。

 

 

後悔を背負う医師

 『おかえりモネ』で菅波が宮田と再会したように、『透明なゆりかご』でも由比にとって印象的な再会が描かれる。

 一つは由比が大学病院を去るきっかけとなった14歳の妊婦、北野真理とその子供との9年越しの再会である。真理とその家族に寄り添った結果としての出産だったが、真理の母親が亡くなったことで最悪のケースに陥る可能性だってあったはずだった。大変な苦労を超えてきたであろう北野親子との再会はとても暖かく、母体死亡のケースを経験した直後で少し自信を失いかけていた由比の気持ちを立ち直らせた。

 もう一つの再会は、その母体死亡のケースとなってしまった真知子(マイコ)の夫・陽介(葉山奨之)との再会であった。妻の死亡直後は由比を訴えると息巻き病院で暴れたこともあった陽介だが、赤ちゃんを一人で育てなければならない日々に忙殺され、いつしか由比への怒りは解けていた。最終回、職場の先輩の妻である灯里の出産を祝うため、陽介は久しぶりに病院に現れて由比との再会を果たす。妻に生きていてほしかった、でも娘と一緒にいられて幸せだと、そして最後に「由比先生、頑張ってくださいね」と言う陽介に、由比は涙をこぼしながら感謝した。

 医者は患者の人生を左右してしまうこともあるその重みが、二人の誠実な医者の後悔や悩みを通してじっくり描かれていた。

 

 ところで『透明なゆりかご』にはもう一人医者が出てくる。これはほぼ原作通りなのだが第6回「いつか望んだとき」に出てくる神村重吉(イッセー尾形)だ。

 この神村は看板も出さない田舎の一軒家でひっそりと中絶手術を行なっている。たった3万円で、同意書も不要。こんなところがあるから気安く中絶する人が増えるのではないかとアオイは憤るが、神村夫妻の話を聞いて考えを改める。

 なぜ、中絶手術に10万円もかかるのか。

 なぜ、父親の同意書が必要なのか。

 なぜ、女性だけがその痛みも責任も負わなければならないのか。

 放送から四年経っても日本ではこの問題は解決されておらず、またアメリカでは最高裁が中絶の禁止を容認した。女性のリプロダクティブ・ヘルス/ライツがますます脅かされる今、このドラマの問いが重く広がる。

 ちなみに神村は、ある少女の自殺を止められなかったという後悔を背負って、中術手術を続けている。「後悔を背負う医師」がここにもいた。

 

 

テーマは共感

 「あなたの痛みは僕にはわかりません。でも、わかりたいと思っています」という菅波の台詞は『おかえりモネ』におけるベストシーンの一つであり、物語全体のテーマが集約された台詞だが、実は既に『透明なゆりかご』にも似た台詞が登場していた。

 妊娠による体調の変化から夫婦仲がぎくしゃくしてしまった紗也子の夫(柄本時生)が、あいつが何を望んでるかわからないと愚痴ると、由比は自分も男だから女性の気持ちがわからないことがあるのだと言い、「わからない分、わかりたいっていう気持ちは強いです。女性の医師が女だからわかるって流してるところも、僕は勉強して 経験を積んでわかろうとします」と語る。

 そもそも『透明なゆりかご』は、主人公アオイが患者である様々な妊婦たちの人生を想像し共感するドラマだ。

 『おかえりモネ』で姉妹を演じることになる、清原果耶と蒔田彩珠が初共演した第2回「母性ってなに」でそれは顕著に描かれる。

 赤ちゃんを産み捨てるという、この社会で厳しく糾弾されることをした千絵(蒔田彩珠)をアオイもまた非難する。だが千絵が自転車で来た道を逆方向から辿ったアオイは、それがどれだけ辛く恐ろしい経験だったかを、想像してわかってしまうのだ(この時の泣きながら自転車で走る蒔田彩珠の演技は圧巻で何度見ても泣いてしまう)。

 

 またこのドラマでは働く女性同士の共感についても描かれる。

 産まなかった女性である榊と、これから産む女性である紗也子。榊は産後の紗也子の働き方について「全部を欲しがっちゃダメよ。あなたは子供を産むことを選んだんだから」と冷たい言葉を向けてしまう。のちに榊は謝罪し「女同士ってどうして比べちゃうのかしら」と言うが、紗也子はこう返す。

 「わかるからじゃないですか、気持ちが。どんなに立場が違っても、何となくわかってしまう。だから比べてるんじゃなくて、私たちは共感してるんだと思います」

 立場の違う女同士が手を繋げるのは「共感」であると指し示すこの台詞が、私はこのドラマで一番好きだ。

 

 

アオイとモネ、二人のヒロインを繋ぐ彩雲

 第9話「透明な子」の話をするのは気が重い。子供が性被害に遭う話だからだ。内容の詳細は省く。もとからその少女・亜美と友達だったアオイが、海が見たいという亜美の頼みを聞いて二人で病院の屋上に出る。由比産婦人科病院は浜辺の目の前にあるので屋上からも海が見えるのだ。その日はよく晴れていて、空を見上げた亜美が彩雲を見つけた。亜美の視線を追ったアオイがそれを見て、「虹色だ〜綺麗!ね、これ見るといいことあるんだよね?」とはしゃぐ。

 この彩雲についてのくだりは原作漫画にはないのでドラマオリジナルだ。『おかえりモネ』でモネが気象に興味を持つきっかけとなったのもまた彩雲で、二つのドラマをつなぐアイテムと言える。

 また、アオイは亜美の変化に気づいてあげられなかったことを深く後悔する。これは原作漫画通りなのだが、「あの時何もできなかった」という後悔を抱えているモネと重なるものがあった。

 ちなみにこの回のラストは原作漫画と違う決断を見せる。今ドラマとして見せるならば、こちらの選択肢を選んでくれてよかったと思う。

 

 

あなたの痛みに寄り添うこと

 当事者じゃない人間がその苦しみを描くことーー。安達奈緒子さんは『透明なゆりかご』についてこう語る(『脚本の月刊誌 ドラマ 2019年3月号』より)。

その人の本当の気持ちはわたしには分からないけど可能な限り思いを馳せて想像して、無自覚に傷付けることだけは避けなければならない。(中略)想像しよう、と心に決めつつ、わたしが想像できる程度の世界など現実と比較するとあまりに軽く、つまらないものでした。それほど取材先でうかがったお話は、どなたのお話も重く、生々しく、ときに笑えて、胸を打ちました。ドラマはフィクションですが、作り物だからこそ一枚一枚積み重ねて作らなければならない。基本中の基本をようやく身体で理解したような気持ちです。

 また『おかえりモネ』については、

それらをいくら自分の身に置き換えてみたところで、どこまで行っても想像の域を出ません。その方の本当の苦しみはわからないし、わかろうとすること自体烏滸がましい。わからないのはどうしようもないことならば、それを前提に、一緒に生きていくにはどうしたらいいのかーー。 その答えの一つを、第16週で菅波が百音に言う「あなたの痛みは僕にはわかりません。でも、わかりたいと思っています」というセリフに込めました。たとえ痛みを共有できなくても、究極的には相手のために何もできなかったとしても、「わかりたいと思っている」と伝え、そばに居続けること。あなたの痛みを、ほんの一瞬でもいいから癒せる存在になれたらという、それは願いというより祈りに近いものかもしれません。

と語る(『おかえりモネメモリアルブック』より)。

 

 どんな人間関係でも他者の痛みを本当に理解することはできない。想像するのは当然、でもそれで「わかった」とは思わない、「わかりたい」と願う寄り添う側の誠実な気持ちが大事なのだと。

 思えば『透明なゆりかご』は命の生まれる現場での光と陰を描いた作品だが、当事者(妊娠した女性やその家族ら)と非当事者(アオイ、世間)の距離を想像と共感で埋めていく物語だった。そして『おかえりモネ』ではさまざまなレイヤーでの当事者/非当事者の問題が繊細に描かれ、それでも共に生きていけるという希望を見せてくれたドラマだった。

 他者の痛みについて懸命に想像する『透明なゆりかご』のその先に、傷ついた人と共に生きていく『おかえりモネ』の物語がある。この二つの作品の繋がりについて考えたことでますますこの二作品が好きになった気がした。

 

 

 

 『透明なゆりかご』はネトフリでも絶賛公開中です。もし未見の方がいたらぜひ。

 

 

 

『くるまの娘』とりょーちんのこと

※『くるまの娘』というのは宇佐美りんさんによる小説で、最近単行本になったので本屋の平台に置いてあったりもすると思います。私はこの小説を読んで、「おかえりモネ」におけるりょーちんこと及川亮についての解像度が上がったような気がしました。そんな話をします。

 

 

『くるまの娘』は壊れかけた家族を主体にしたロードムービーのような一作だ。

父親は理想主義で威圧的、時には暴力も振るう。母親は昔は優しかったが、病気を機に心も体も少しずつ壊れていってアルコールに溺れている。主役の「かんこ」は高校生だがうつ病不登校気味。かんこの兄は家から逃げ出し既に結婚して自分の家庭を築いている。かんこの弟は進学の関係で数ヶ月前から祖父母の家に引き取られた。

そんなバラバラな家族を再び集まらせたのは、祖母の危篤の知らせだった。

懐かしい車中泊をしたり、思い出の遊園地に寄ったり、祖母の葬式を挟んだ小旅行のような数日間は浮かれているようでもあり、壊れたり破れたりしたものはそのままなのだとキツく突きつけられ、また傷つけ合った。

 

「かんこ」は私から見れば肉体的にも精神的にもDVを受けている保護すべき子供で、両親もまた個別にケアが必要な状況だ。実際、酔った母親が暴れた時に警察が来て、家族に介入される機会はあった。だが、かんこはそれを拒む。

自分を傷つける相手からは逃げろ、傷つく場所からは逃げろ、と巷では言われる。(中略)たったひとりで、逃げ出さなくてはいけないのか、とかんこは何度も思った。自分の健康のために。自分の命のために? このどうしようもない地獄のなかに家の者を置きざりにすることが、自分のこととまったく同列に痛いのだということが、大人には伝わらないのだろうか。

背負って、ともに地獄を抜け出したかった。そうしたいからもがいている。そうできないから、泣いているというのに。

もつれ合いながら脱しようともがくさまを「依存」の一語で切り捨ててしまえる大人たちが、数多自立しているこの世界をこそ、かんこは捨てたかった。

 

 

 

このくだりを読んで、私はどうしようもなくりょーちんのことを思った。そして私自身も「『依存』の一語で切り捨ててしまえる大人」だったのではないかと。

 

妻と船と家を奪われてアルコールに溺れた父親と共に暮らしながら自身は高卒で漁師となって健気に働く亮を、可哀想なヤングケアラーの子供として見ていた。だからこそ、もっと彼自身がケアされてほしい、父親とはいったん離れて暮らして、とドラマの序盤はそう思いながら見ていたと思う。

それは間違ってはないと思う。それこそ「正しいけど冷たい」、第三者ゆえの言葉だ。

 

だけどこの『くるまの娘』を読んで、亮と父親・新次の関係はもっと複雑だったのではないかと気付かされた。亮が誰にも頼ろうとしなかったのは、誰からも介入されたくなかったからではないか。たった一人になってしまった家族、大好きな父親と離れたくなくて。憧れだった父親にまた船に乗ってほしくて。

それを「依存」と呼ぶことに暴力性は潜んでないだろうか。

 

メカジキを50本揚げたという亮からの嬉しそうな電話がトリガーとなり、断っていた酒を飲んで行方不明になった新次。5年経っても断ち切れない美波への思いに「立ちなおらねぇよ」と宣言のような言葉を聞いた亮は、母親の十八番だった「かもめ」を歌おうとしたり、父親が大事に持っている母の携帯電話を投げようとするなど、ひどく子供じみた行動に出る。それは立ち直ってほしいという願いと同じように、こっちを見てくれ、俺だけを見てくれという子供のような叫びにも見えた。

 

傷ついた人をケアすることの難しさを「おかえりモネ」は描いた。

この後も新次は酒を飲んで暴れることもあった。だけど亜矢子のサポートもあって病院通いは続けてたんだろう。物語の終盤では知り合いのいちご農家を手伝っていると言って穏やかな表情を見せていた。

一方の亮は新次と別に暮らすことになり、東京で行方不明になったりしたこともあったけど、変わらず漁師の仕事を続けていた。だけどその心中は終盤まで揺らぎ続けているように見えた。

 

自分の船を買えるめどが立ってなお、亮は新次に、一緒に乗ってくれないかと懇願する。だが新次は「その船はお前の船だ」ときっぱりと線をひき、元に戻ることだけがいいことだとは思えない、海に出るのはあの日を最後にしたいと自分の思いを語る。

それでも諦めきれない亮は「オヤジを元に戻すことが俺の生きてきた目的だ」と縋る。新次は「それではおめの人生ではないだろ」と切り返し、再度「俺は船には乗らねえ」とはっきりと伝え、なお「おめは自分の船でやりたいようにやれ俺はそれ見てるから」と亮の背中を優しく押すのだ。

 

「立ち直って船に乗ってほしい」という願いはいつしか亮にとっての呪いとなった。そしてそれを解くことができるのは新次だけだったのだ。そしてそこに辿り着くにはまず新次自身が美波のことを自分の中で決着をつける必要があった。

そこには複雑なレイヤーがある。二人の周囲それぞれに何らかのサポートがあったとしても、最終的な解決は父の決断を亮が受け入れること抜きには達成されなかった。

「全部やめてもいいかな」と電話越しに亮が吐露するシーンがある。モネは「やめてもいいと思う」と応えたし私もそう思った。やめていいし逃げていい。違う場所で生きていい。でもそれでは亮は救われなかったのだ。

 

脚本家・安達奈緒子さんのインタビューの中に

その人の苦しみは、その人でなければ絶対に理解できない

という言葉がある。誰かにとっての正解がそのまた別の人の正解にはなり得ない。心のケアはそれだけ複雑な事なのだと改めて考えさせられた。

 

亮は「船の息子」だった。

亮はずっと、新次の船に乗っていたかった。それだけが亮の願いだった。

主人公モネの成長物語と並走してきた及川家の物語は、亮が「親父の船」から降りて「自分一人の船」に乗るまでの物語だったのだ。

 

 

 

 

※ちなみに『くるまの娘』についてですが、作者の宇佐見りんさんはデビュー作『かか』で文藝賞三島由紀夫賞、二作目『推し、燃ゆ』で芥川賞を獲った、押しも押されもせぬ純文学界の若手スターなのですが、私はこの三作目の『くるまの娘』が一番好きです。心の傷と家族についてのお話なので「おかえりモネ」が好きな人にも刺さるものがあるんじゃないかなと思います

 

 

 

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