浜辺にて

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二つのドラマを繋ぐ彩雲〜「透明なゆりかご」と「おかえりモネ」〜

 久しぶりに『透明なゆりかご』を全話見た。沖田×華さんによる同名漫画を原作としたこのドラマは2018年にNHKのドラマ10の枠で放送された。私はこのドラマが放送当時からとても大好きで、だからこそ脚本家と主演が同じコンビの『おかえりモネ』に期待し実際そちらにもどハマりしたのだが、『おかえりモネ』を見た後に『透明なゆりかご』を見返すのは実は今回が初めてだった。

 同じ脚本家の作品とはいえ『透明なゆりかご』は原作があるからある程度別物だと思っていたのが、意外にも『おかえりモネ』との共通項が多いことに気付かされた。今回は原作漫画(ドラマ制作時に刊行されてた6巻まで)も読んだことで原作とドラマの境目を知り、その原作の隙間を埋めるドラマオリジナルの部分がそのまま『おかえりモネ』に繋がっていると思った。そういう話をします。

 

 

ヒロインを見守る二人の医者、由比先生と菅波先生

 ドラマ版『透明なゆりかご』は、話の軸である妊婦さんたちエピソードは(時折アレンジはあるが)ほぼ原作に忠実だが、ヒロインと継続的に関わるキャラクターはドラマオリジナルだ。先輩ナースである望月紗也子(水川あさみ)、婦長の榊実江(原田美枝子)、そして院長である由比朋寛(瀬戸康史)、この三人はドラマの舞台となる由比産婦人科医院のメインスタッフであり、ドラマオリジナルのキャラクターである。

 そしてそのことを踏まえてドラマを見ると、院長の由比が『おかえりモネ』の菅波に非常に近いキャラクターであることがわかる。由比のエピソードの中に菅波へと連なる種のようなものがあるのだ。

 

 まず由比も菅波も、大学病院という権威から外れても自分のやりたいことを選ぶ医者である。

 由比は大学病院時代に14歳の妊娠という難しいケースを担当した。14歳の北野真理とその家族は出産を選ぶが、出産直後に真理の最大の理解者であった母親が死亡する。引っ越した真理のその後が心配で直接会いに行こうかとまで言い出した由比に、当時も一緒に働いていたベテランナースの榊が、患者に必要以上に関わらない方が良いとピシャリと言う。だが由比は、出産は人の人生を変える、だから一人ひとりに納得いくまで関わりたいのだと反論する。効率ばかりを求められる大学病院のやり方にも疑問を感じ、周囲の反対を押し切って大学病院を辞めて個人病院を開いたという経緯があった。

 一方『おかえりモネ』の菅波は東京に生まれ都内でも有数の大学病院に勤める若手医師だが、指導医である中村に頼まれて一週間おきに宮城県登米の診療所で働くことになる。最初は渋々といった風情であったが、三年近くその生活を続けるうちに彼の内面も大きく変化する。当初は訪問診療を始めることさえも反対をしていたが、やがて地域医療と在宅医療に興味を持ち、一時は大学病院を辞めて登米の診療所に専念することを決断した(大学病院に籍は残す)。

 

 患者の本当の思いを汲み取るための丁寧なアシストも両作で描かれる。

 『透明なゆりかご』最終回では胎児に重度の心臓病が発覚する夫婦の物語が描かれる。夫婦はそれでも出産する道を選ぶが、母親である灯里(鈴木杏)にまだ口に出さない思いがあるのではないかと、気付いた看護師の紗也子の進言を受け、由比は夫婦に問いかける。出産後、本当に積極的治療を望むかどうか。

 この流れは『おかえりモネ』のトムさんのエピソードで再現される。トムさんの本当の気持ちに気付いたモネが菅波に進言し、それに菅波は反発するが、結果としてトムさんのもとを訪れて新たな提案をすることにつながる。

 ここではまだ若い菅波が、やがて由比のような医者になるその過程が丁寧に描かれていたようにも見えた。

 

 

後悔を背負う医師

 『おかえりモネ』で菅波が宮田と再会したように、『透明なゆりかご』でも由比にとって印象的な再会が描かれる。

 一つは由比が大学病院を去るきっかけとなった14歳の妊婦、北野真理とその子供との9年越しの再会である。真理とその家族に寄り添った結果としての出産だったが、真理の母親が亡くなったことで最悪のケースに陥る可能性だってあったはずだった。大変な苦労を超えてきたであろう北野親子との再会はとても暖かく、母体死亡のケースを経験した直後で少し自信を失いかけていた由比の気持ちを立ち直らせた。

 もう一つの再会は、その母体死亡のケースとなってしまった真知子(マイコ)の夫・陽介(葉山奨之)との再会であった。妻の死亡直後は由比を訴えると息巻き病院で暴れたこともあった陽介だが、赤ちゃんを一人で育てなければならない日々に忙殺され、いつしか由比への怒りは解けていた。最終回、職場の先輩の妻である灯里の出産を祝うため、陽介は久しぶりに病院に現れて由比との再会を果たす。妻に生きていてほしかった、でも娘と一緒にいられて幸せだと、そして最後に「由比先生、頑張ってくださいね」と言う陽介に、由比は涙をこぼしながら感謝した。

 医者は患者の人生を左右してしまうこともあるその重みが、二人の誠実な医者の後悔や悩みを通してじっくり描かれていた。

 

 ところで『透明なゆりかご』にはもう一人医者が出てくる。これはほぼ原作通りなのだが第6回「いつか望んだとき」に出てくる神村重吉(イッセー尾形)だ。

 この神村は看板も出さない田舎の一軒家でひっそりと中絶手術を行なっている。たった3万円で、同意書も不要。こんなところがあるから気安く中絶する人が増えるのではないかとアオイは憤るが、神村夫妻の話を聞いて考えを改める。

 なぜ、中絶手術に10万円もかかるのか。

 なぜ、父親の同意書が必要なのか。

 なぜ、女性だけがその痛みも責任も負わなければならないのか。

 放送から四年経っても日本ではこの問題は解決されておらず、またアメリカでは最高裁が中絶の禁止を容認した。女性のリプロダクティブ・ヘルス/ライツがますます脅かされる今、このドラマの問いが重く広がる。

 ちなみに神村は、ある少女の自殺を止められなかったという後悔を背負って、中術手術を続けている。「後悔を背負う医師」がここにもいた。

 

 

テーマは共感

 「あなたの痛みは僕にはわかりません。でも、わかりたいと思っています」という菅波の台詞は『おかえりモネ』におけるベストシーンの一つであり、物語全体のテーマが集約された台詞だが、実は既に『透明なゆりかご』にも似た台詞が登場していた。

 妊娠による体調の変化から夫婦仲がぎくしゃくしてしまった紗也子の夫(柄本時生)が、あいつが何を望んでるかわからないと愚痴ると、由比は自分も男だから女性の気持ちがわからないことがあるのだと言い、「わからない分、わかりたいっていう気持ちは強いです。女性の医師が女だからわかるって流してるところも、僕は勉強して 経験を積んでわかろうとします」と語る。

 そもそも『透明なゆりかご』は、主人公アオイが患者である様々な妊婦たちの人生を想像し共感するドラマだ。

 『おかえりモネ』で姉妹を演じることになる、清原果耶と蒔田彩珠が初共演した第2回「母性ってなに」でそれは顕著に描かれる。

 赤ちゃんを産み捨てるという、この社会で厳しく糾弾されることをした千絵(蒔田彩珠)をアオイもまた非難する。だが千絵が自転車で来た道を逆方向から辿ったアオイは、それがどれだけ辛く恐ろしい経験だったかを、想像してわかってしまうのだ(この時の泣きながら自転車で走る蒔田彩珠の演技は圧巻で何度見ても泣いてしまう)。

 

 またこのドラマでは働く女性同士の共感についても描かれる。

 産まなかった女性である榊と、これから産む女性である紗也子。榊は産後の紗也子の働き方について「全部を欲しがっちゃダメよ。あなたは子供を産むことを選んだんだから」と冷たい言葉を向けてしまう。のちに榊は謝罪し「女同士ってどうして比べちゃうのかしら」と言うが、紗也子はこう返す。

 「わかるからじゃないですか、気持ちが。どんなに立場が違っても、何となくわかってしまう。だから比べてるんじゃなくて、私たちは共感してるんだと思います」

 立場の違う女同士が手を繋げるのは「共感」であると指し示すこの台詞が、私はこのドラマで一番好きだ。

 

 

アオイとモネ、二人のヒロインを繋ぐ彩雲

 第9話「透明な子」の話をするのは気が重い。子供が性被害に遭う話だからだ。内容の詳細は省く。もとからその少女・亜美と友達だったアオイが、海が見たいという亜美の頼みを聞いて二人で病院の屋上に出る。由比産婦人科病院は浜辺の目の前にあるので屋上からも海が見えるのだ。その日はよく晴れていて、空を見上げた亜美が彩雲を見つけた。亜美の視線を追ったアオイがそれを見て、「虹色だ〜綺麗!ね、これ見るといいことあるんだよね?」とはしゃぐ。

 この彩雲についてのくだりは原作漫画にはないのでドラマオリジナルだ。『おかえりモネ』でモネが気象に興味を持つきっかけとなったのもまた彩雲で、二つのドラマをつなぐアイテムと言える。

 また、アオイは亜美の変化に気づいてあげられなかったことを深く後悔する。これは原作漫画通りなのだが、「あの時何もできなかった」という後悔を抱えているモネと重なるものがあった。

 ちなみにこの回のラストは原作漫画と違う決断を見せる。今ドラマとして見せるならば、こちらの選択肢を選んでくれてよかったと思う。

 

 

あなたの痛みに寄り添うこと

 当事者じゃない人間がその苦しみを描くことーー。安達奈緒子さんは『透明なゆりかご』についてこう語る(『脚本の月刊誌 ドラマ 2019年3月号』より)。

その人の本当の気持ちはわたしには分からないけど可能な限り思いを馳せて想像して、無自覚に傷付けることだけは避けなければならない。(中略)想像しよう、と心に決めつつ、わたしが想像できる程度の世界など現実と比較するとあまりに軽く、つまらないものでした。それほど取材先でうかがったお話は、どなたのお話も重く、生々しく、ときに笑えて、胸を打ちました。ドラマはフィクションですが、作り物だからこそ一枚一枚積み重ねて作らなければならない。基本中の基本をようやく身体で理解したような気持ちです。

 また『おかえりモネ』については、

それらをいくら自分の身に置き換えてみたところで、どこまで行っても想像の域を出ません。その方の本当の苦しみはわからないし、わかろうとすること自体烏滸がましい。わからないのはどうしようもないことならば、それを前提に、一緒に生きていくにはどうしたらいいのかーー。 その答えの一つを、第16週で菅波が百音に言う「あなたの痛みは僕にはわかりません。でも、わかりたいと思っています」というセリフに込めました。たとえ痛みを共有できなくても、究極的には相手のために何もできなかったとしても、「わかりたいと思っている」と伝え、そばに居続けること。あなたの痛みを、ほんの一瞬でもいいから癒せる存在になれたらという、それは願いというより祈りに近いものかもしれません。

と語る(『おかえりモネメモリアルブック』より)。

 

 どんな人間関係でも他者の痛みを本当に理解することはできない。想像するのは当然、でもそれで「わかった」とは思わない、「わかりたい」と願う寄り添う側の誠実な気持ちが大事なのだと。

 思えば『透明なゆりかご』は命の生まれる現場での光と陰を描いた作品だが、当事者(妊娠した女性やその家族ら)と非当事者(アオイ、世間)の距離を想像と共感で埋めていく物語だった。そして『おかえりモネ』ではさまざまなレイヤーでの当事者/非当事者の問題が繊細に描かれ、それでも共に生きていけるという希望を見せてくれたドラマだった。

 他者の痛みについて懸命に想像する『透明なゆりかご』のその先に、傷ついた人と共に生きていく『おかえりモネ』の物語がある。この二つの作品の繋がりについて考えたことでますますこの二作品が好きになった気がした。

 

 

 

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