浜辺にて

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『くるまの娘』とりょーちんのこと

※『くるまの娘』というのは宇佐美りんさんによる小説で、最近単行本になったので本屋の平台に置いてあったりもすると思います。私はこの小説を読んで、「おかえりモネ」におけるりょーちんこと及川亮についての解像度が上がったような気がしました。そんな話をします。

 

 

『くるまの娘』は壊れかけた家族を主体にしたロードムービーのような一作だ。

父親は理想主義で威圧的、時には暴力も振るう。母親は昔は優しかったが、病気を機に心も体も少しずつ壊れていってアルコールに溺れている。主役の「かんこ」は高校生だがうつ病不登校気味。かんこの兄は家から逃げ出し既に結婚して自分の家庭を築いている。かんこの弟は進学の関係で数ヶ月前から祖父母の家に引き取られた。

そんなバラバラな家族を再び集まらせたのは、祖母の危篤の知らせだった。

懐かしい車中泊をしたり、思い出の遊園地に寄ったり、祖母の葬式を挟んだ小旅行のような数日間は浮かれているようでもあり、壊れたり破れたりしたものはそのままなのだとキツく突きつけられ、また傷つけ合った。

 

「かんこ」は私から見れば肉体的にも精神的にもDVを受けている保護すべき子供で、両親もまた個別にケアが必要な状況だ。実際、酔った母親が暴れた時に警察が来て、家族に介入される機会はあった。だが、かんこはそれを拒む。

自分を傷つける相手からは逃げろ、傷つく場所からは逃げろ、と巷では言われる。(中略)たったひとりで、逃げ出さなくてはいけないのか、とかんこは何度も思った。自分の健康のために。自分の命のために? このどうしようもない地獄のなかに家の者を置きざりにすることが、自分のこととまったく同列に痛いのだということが、大人には伝わらないのだろうか。

背負って、ともに地獄を抜け出したかった。そうしたいからもがいている。そうできないから、泣いているというのに。

もつれ合いながら脱しようともがくさまを「依存」の一語で切り捨ててしまえる大人たちが、数多自立しているこの世界をこそ、かんこは捨てたかった。

 

 

 

このくだりを読んで、私はどうしようもなくりょーちんのことを思った。そして私自身も「『依存』の一語で切り捨ててしまえる大人」だったのではないかと。

 

妻と船と家を奪われてアルコールに溺れた父親と共に暮らしながら自身は高卒で漁師となって健気に働く亮を、可哀想なヤングケアラーの子供として見ていた。だからこそ、もっと彼自身がケアされてほしい、父親とはいったん離れて暮らして、とドラマの序盤はそう思いながら見ていたと思う。

それは間違ってはないと思う。それこそ「正しいけど冷たい」、第三者ゆえの言葉だ。

 

だけどこの『くるまの娘』を読んで、亮と父親・新次の関係はもっと複雑だったのではないかと気付かされた。亮が誰にも頼ろうとしなかったのは、誰からも介入されたくなかったからではないか。たった一人になってしまった家族、大好きな父親と離れたくなくて。憧れだった父親にまた船に乗ってほしくて。

それを「依存」と呼ぶことに暴力性は潜んでないだろうか。

 

メカジキを50本揚げたという亮からの嬉しそうな電話がトリガーとなり、断っていた酒を飲んで行方不明になった新次。5年経っても断ち切れない美波への思いに「立ちなおらねぇよ」と宣言のような言葉を聞いた亮は、母親の十八番だった「かもめ」を歌おうとしたり、父親が大事に持っている母の携帯電話を投げようとするなど、ひどく子供じみた行動に出る。それは立ち直ってほしいという願いと同じように、こっちを見てくれ、俺だけを見てくれという子供のような叫びにも見えた。

 

傷ついた人をケアすることの難しさを「おかえりモネ」は描いた。

この後も新次は酒を飲んで暴れることもあった。だけど亜矢子のサポートもあって病院通いは続けてたんだろう。物語の終盤では知り合いのいちご農家を手伝っていると言って穏やかな表情を見せていた。

一方の亮は新次と別に暮らすことになり、東京で行方不明になったりしたこともあったけど、変わらず漁師の仕事を続けていた。だけどその心中は終盤まで揺らぎ続けているように見えた。

 

自分の船を買えるめどが立ってなお、亮は新次に、一緒に乗ってくれないかと懇願する。だが新次は「その船はお前の船だ」ときっぱりと線をひき、元に戻ることだけがいいことだとは思えない、海に出るのはあの日を最後にしたいと自分の思いを語る。

それでも諦めきれない亮は「オヤジを元に戻すことが俺の生きてきた目的だ」と縋る。新次は「それではおめの人生ではないだろ」と切り返し、再度「俺は船には乗らねえ」とはっきりと伝え、なお「おめは自分の船でやりたいようにやれ俺はそれ見てるから」と亮の背中を優しく押すのだ。

 

「立ち直って船に乗ってほしい」という願いはいつしか亮にとっての呪いとなった。そしてそれを解くことができるのは新次だけだったのだ。そしてそこに辿り着くにはまず新次自身が美波のことを自分の中で決着をつける必要があった。

そこには複雑なレイヤーがある。二人の周囲それぞれに何らかのサポートがあったとしても、最終的な解決は父の決断を亮が受け入れること抜きには達成されなかった。

「全部やめてもいいかな」と電話越しに亮が吐露するシーンがある。モネは「やめてもいいと思う」と応えたし私もそう思った。やめていいし逃げていい。違う場所で生きていい。でもそれでは亮は救われなかったのだ。

 

脚本家・安達奈緒子さんのインタビューの中に

その人の苦しみは、その人でなければ絶対に理解できない

という言葉がある。誰かにとっての正解がそのまた別の人の正解にはなり得ない。心のケアはそれだけ複雑な事なのだと改めて考えさせられた。

 

亮は「船の息子」だった。

亮はずっと、新次の船に乗っていたかった。それだけが亮の願いだった。

主人公モネの成長物語と並走してきた及川家の物語は、亮が「親父の船」から降りて「自分一人の船」に乗るまでの物語だったのだ。

 

 

 

 

※ちなみに『くるまの娘』についてですが、作者の宇佐見りんさんはデビュー作『かか』で文藝賞三島由紀夫賞、二作目『推し、燃ゆ』で芥川賞を獲った、押しも押されもせぬ純文学界の若手スターなのですが、私はこの三作目の『くるまの娘』が一番好きです。心の傷と家族についてのお話なので「おかえりモネ」が好きな人にも刺さるものがあるんじゃないかなと思います

 

 

 

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